【細川家】補足
加藤清正(かとうきよまさ)
加藤清正は、細川家の前に熊本を治めていた加藤家の初代です。名君であり、築城の名人、土木の神様としても知られています。

彼の手がけた「熊本城」は、「大坂城」、「名古屋城」と共に「日本三名城」と称されています。「熊本城」は実戦を想定して造られ、非常に堅牢な城になっています。後年、西南の役のとき西郷隆盛が「清正に負けた」と嘆いた話は有名です。
慶長16年、豊臣家恩顧の武将であった清正は、豊臣秀頼と徳川家康の二条城会見を成功させたあと病没。三男の忠広が跡を継ぎますが、幕府との騒動が原因で肥後藩主を改易され、出羽庄内藩(現・山形県)へ預けられ、堪忍分として一万石を与えられました。
彼の手がけた「熊本城」は、「大坂城」、「名古屋城」と共に「日本三名城」と称されています。「熊本城」は実戦を想定して造られ、非常に堅牢な城になっています。後年、西南の役のとき西郷隆盛が「清正に負けた」と嘆いた話は有名です。
慶長16年、豊臣家恩顧の武将であった清正は、豊臣秀頼と徳川家康の二条城会見を成功させたあと病没。三男の忠広が跡を継ぎますが、幕府との騒動が原因で肥後藩主を改易され、出羽庄内藩(現・山形県)へ預けられ、堪忍分として一万石を与えられました。
家紋(かもん)
本来、足利一門である細川家の代々の家紋は、「松笠菱」と呼ばれるものです。
永禄12年(1569年)、初代・細川藤孝(幽斎)が四国の三好山城入道から将軍・足利義昭を守った際、義昭から感謝状を貰い、「桐紋」「引輌紋(ひきりょうもん)」の使用が許され、正式な家紋となります。
またある時、2代・忠興(当時16歳)が織田信長の小刀の柄に九曜の彫刻があるのを見て気に入り、自分の帷子(かたびら)の紋につけます。後日、これを見た信長がわけを聞き忠興が話すと、信長から使用を許されます。以後「九曜紋」が忠興の定紋となります。
現在、私たちが目にする細川家の家紋は、ほとんどがこの「九曜紋」です。また、細川家の家紋として「桜」が使用されることもありますが、これは長年細川家が数寄(風流を好む)の家紋として用いているものです。
肥後細川家系譜(敬称略)
| 初代 | 藤孝(幽斎) | 2代 | 忠興(三斎) | 3代 | 忠利(ただとし) |
| 4代 | 光尚(みつなお) | 5代 | 綱利(つなとし) | 6代 | 宣紀(のぶのり) |
| 7代 | 宗孝(むねたか) | 8代 | 重賢(しげかた) | 9代 | 治年(はるとし) |
| 10代 | 斉茲(なりしげ) | 11代 | 斉樹(なりたつ) | 12代 | 斉護(なりもり) |
| 13代 | 韶邦(よしくに) | 14代 | 護久(もりひさ) | 15代 | 護成(もりしげ) |
| 16代 | 護立(もりたつ) | 17代 | 護貞(もりさだ) | 18代 | 護熙(もりひろ) |