細川家について

細川

細川家清和源氏の流れを汲む足利家の一流で、現在の愛知県岡崎市細川町周辺を発祥の地としています。


約100年間三河の守護を務めた足利氏の一族は、それぞれに与えられた地名をそのまま苗字としました。


吉良氏、今川氏、一色氏、仁木(にっき)氏そして細川氏が誕生しました。このとき細川氏を名乗った足利義季の長男・義清が、細川宗家である「京兆家(けいちょうけ)」の祖にあたります。


ちなみに、肥後藩主となる細川家の初代・幽斎は傍流の「和泉上守護家」の生まれで、将軍の命で、同じく傍流の「奥州家」の養子になりました。


細川家は以下のように分かれています。

 
 ・京兆家(けいちょう)…細川宗家。


 ・典厩家(てんきゅう)…分家の一つ。


 ・奥州家…分家の一つ。大外様。幽斎の養父はこの系譜。


 ・阿波細川家…分家の一つ。阿波(現・徳島県)守護を務める。


 ・和泉上守護家…和泉(現・大阪府)の守護を務める。


 



細川家の肥後入封1 ~名君の死後~

慶長16年(1611年)、熊本を治めていた加藤清正補足)が死去します。


次男である忠広(ただひろ)が跡目を継ぎますが、忠広はまだ十代になったばかりと幼く、徳川幕府より派遣された藤堂高虎を中心とする5人の家老による合議制によって政治は行われました。


幼い忠広に人心掌握など望むべくもなく、家臣同士は対立し政治は乱れます。


 



細川家の肥後入封2 ~加藤家改易~

寛永9年(1632年)、加藤家2代・忠広の長男・光広の名前と花押(署名の代わりに使われる印)を記した、謀反をほのめかす書状が発見され、忠広は江戸に呼び出されます。


何度か取り調べを受け、5月29日。処分が決定しました。


加藤家は一万石を与えられ、出羽庄内(現・山形県)に配流となり藩主の酒井家に世話になります。


承応2年(1653年)、忠広は死去。子孫も次々と自害し加藤家は滅びます。


この改易の裏には、豊臣家寄りであった加藤家に徳川幕府が難癖をつけた、など色々な説がありますが、真相はわからずじまいです。


 



細川家の肥後入封3 ~新藩主の対応~

時代は戻り寛永9年(1632年)、関ヶ原の功績や幕府からの信頼も加味され、加藤家改易後の肥後熊本に細川家が入国します。


2代・三斎八代城を隠居城とし、3代・忠利熊本城主になります。


細川家が入国する際、忠利は行列の先頭に加藤清正補足)の位牌を掲げ、熊本城に入城する際は大手門で額を地面につけ、天守に上ったときは加藤家の菩提寺本妙寺に向かって頭を下げた、という話があります。


熊本は依然として清正人気の根強い土地です。加藤家に対して礼を尽くすことで、細川家に対する反感を少しでも減らそうと気をつかったのかもしれません。


以後、細川家は加藤家の代わりとして、明治維新まで肥後54万石を治めます。


 



文化功労者たち

細川家は代々文武に優れた功績、逸話を残しています。


例を挙げれば、初代・幽斎は歌道の最高の奥義「古今伝授」の相伝者であり、2代・三斎は千利休の直弟子でのちに「利休七哲」に数えられました。3代・忠利は熊本入国後、東部の地に湧水を活かしてお茶屋を設けました。これが、現在の水前寺成趣園です。


8代・重賢(しげかた)は、藩校「時習館」、医学校「再春館」を開設、産業を奨励して大改革を行いました。16代・護立氏は菱田春草、横山大観、上村松園や堅山南風などの画家や、その他芸術家たちを積極的にバックアップしてきました。


これらのほかにも、現在の熊本には細川家の生み出した、あるいは守ってきた文化が数多く残っています。