【細川幽斎】補足
明智光秀(あけちみつひで)
明智十兵衛光秀(あけちじゅうべえみつひで)。安土桃山時代の武将。足利義昭に仕えていましたが、のち織田信長とともに離反。
しばらく信長に仕えますが、天正10年(1582年)反旗を翻し本能寺にいる信長を奇襲。自害に追い込みます。山崎の戦いにて豊臣秀吉に敗れ、逃亡中、小栗栖で死亡します。
稲富伊賀(いなとみいが)
稲富伊賀守祐直(いなとみいがのかみすけなお)。後の一夢。祖父直時より中国砲術を学び、独自の工夫を凝らし稲富流と呼ばれるまでになります。当初、丹後一色家に仕えていましたが滅亡。天正10年(1582年)頃、細川忠興によって鉄砲指南役として迎えられます。
慶長5年(1600年)、石田三成らが敵方の将の妻子を大坂城へ人質として監禁することを画策。忠興夫人・ガラシャにも要請がきますがガラシャはこれを拒否。伊賀は、ガラシャはじめ小笠原秀清や河喜多石見とともに細川邸で留守を守っていましたが、争いになると逃走します。
その後、「一夢」と名を変え佐和山城主・井伊直政や徳川家康の四男・松平忠吉のもとに匿われるようになります。
これを聞いた忠興は怒り、一夢を罰しようとするものの慶長15年(1610年)に家康が説得。一夢は徳川家に召抱えられることになります。以後徳川義直に仕え、徳川家の者に自身のもつ鉄砲の秘伝を伝授し、慶長16年(1611年)2月駿府城内で没します。
小笠原秀清(おがさわらひできよ)
小笠原少斎秀清(おがさわらしょうさいひできよ)。室町将軍家の家臣でありましたが浪人し、細川藤孝(幽斎)に仕えます。主人不在の細川邸を守護し、石田三成による大坂城への入城要請を拒否した細川ガラシャを討ち、自害しました。
オルガンティーノ(おるがんてぃーの)
ガラシャが一日だけ屋敷を抜け出し、教会に行ったときに出会ったイタリア人イエズス会の宣教師。元亀元年(1570年)フランシスコ=カブラルと一緒に志岐に渡来し、京都に派遣されます。以来勢力が拡大した京都を中心とする五畿内で主に活躍し、日本の教会の発展に大きな貢献をしました。
豊臣秀吉による「バテレン追放令」が発令された後でも、その身を隠しながらガラシャと手紙のやり取りをしていました。
河喜多石見(かわきたいわみ)
河喜多石見一成(かわきたいわみかずなり)。明智光秀の家臣。弓の名手。
明智光秀の娘・玉が細川忠興に嫁ぐと細川家に移ります。小笠原秀清と同じく、主人不在の細川邸を守護し、石田三成による大坂城への入城要請を拒否した細川ガラシャを討ち、自害しました。
清原枝賢(きよはらのしげかた)
清原マリア(きよはらまりあ)
清原枝賢の娘。本名は「いと」。細川ガラシャの侍女。ガラシャの代わりに教会に赴き、神父たちから話を聞いてガラシャに伝えます。また、ガラシャに先んじて洗礼を受け「マリア」を名乗り、洗礼の方法を聞いてガラシャに洗礼を行った人物でもあります。
桂林寺(けいりんじ)
桂林寺とは、京都府舞鶴市にある曹洞宗の禅寺。本尊は、木造座像の釈迦如来(像高26㎝)。
関ヶ原の戦のとき、6世大渓和尚が田辺城に篭城した細川幽斎のため参戦。その功績に対し仏涅槃図や梵鐘が贈られました。
その後も京極氏、牧野氏と歴代藩主の庇護を受けます。
瑞光寺(ずいこうじ)
瑞光寺とは、京都府舞鶴市にある寺。本尊は木造阿弥陀如来立像。
細川幽斎との関わりが深く、田辺篭城の際、楠源吾(明誓上人)を長とする一向宗徒を呼び寄せ活躍します。
楠源吾とは幽斎が田辺に城下町をつくるとき、一向宗徒の力を借りようと呼び寄せた人物。南北朝の戦いにおける楠正成の流れを汲み、彼自身も幽斎の息子・忠興の武術の師を務めるほどでした。
幽斎は源吾を重用し、自分の娘を嫁がせ、文禄3年(1594年)には1万3千坪もの土地を与えて瑞光寺を開かせます。
現在でも瑞光寺には、幽斎の位牌や細川家の家紋でもある九曜紋を寺紋にするなど、細川家との関係を示すものが残されています。
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)
「関ヶ原の戦い」とは1600年(慶長5年)9月15日、美濃国(現・岐阜県)関ヶ原を中心として起きた戦い。別名「天下分け目の戦い」。
豊臣秀吉死後の政権を巡り、徳川家康を中心とする軍(東軍)と石田三成を中心とする軍(西軍)が争いました。東軍の総大将は徳川家康ですが、西軍の総大将は石田三成ではなく毛利輝元。
勝利したのは徳川家康たち東軍で、以後徳川家の覇権が続くことになります。
田辺城(たなべじょう)
天正6年(1578年)、織田信長は、明智光秀と細川藤孝(幽斎)に丹波・丹後攻めを命じます。丹波攻めの総大将は光秀、丹後攻めの総大将は藤孝。藤孝は建部山城主の一色義通を滅ぼし、丹後を平定します。
その功績により丹後の国は細川藤孝、忠興親子の領国となります。
天正7年(1579年)、現在の伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に丹後国経営の拠点として田辺城を築きます。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの功績により、細川親子は豊前中津城主となります。
細川氏の後、京極高知が12万3千石で入封しますが、寛文8年(1668年)3代目・高盛が但馬豊岡に移封され、代わって牧野親成が3万5千石で田辺城に入城。以後牧野氏10代の居城として明治6年に廃城になるまで続きます。
現在の地名である舞鶴は田辺城の別称「舞鶴城」に由来しています。
現在、田辺城は本の丸・二の丸の一部が「舞鶴公園」と呼ばれ桜の名所として有名になっています。
松井康之(まついやすゆき)
天文19年(1550年)~慶長17年(1612年)。
妻は細川藤孝の養女。二男の興長はのちの八代城主。細川家の重臣として永く仕えます。
松井家は細川家とともに文化芸能に秀でた家柄で、康之は千利休の高弟で茶道に造詣が深く、現在に至るまで肥後古流の茶道や金春流の能を伝えています。