細川ガラシャ

玉を幽閉する

細川ガラシャ(本名・玉)は明智光秀補足)の二女(または三女)で、天正6年(1578年)、織田信長の薦めもあり当時青(勝)龍寺(京都府長岡京市)城主であった細川藤孝(幽斎)の息子・忠興と結婚します。


しかし天正10年(1582年)、父である明智光秀が主君である織田信長に対し謀反(『本能寺の変』)を起こします。

 
信長を倒した光秀は細川家にも協力要請をしますが忠興は拒否。忠興は玉を丹後三戸野(現・京都府竹野郡弥栄町)に幽閉します。


 



キリスト教を信仰する

幽閉から約2年の月日が流れ、忠興と復縁したは大坂の細川家屋敷に住むようになります。


しかし、独占欲の強く、偏愛の傾向にある忠興からは、外部との接触を一切絶たされて屋敷の外に出ることすら許されなかったといいます。


心の平安を求めるため、玉はキリスト教を信仰するようになっていきます。


 



信仰を深める

監禁状態のはどのようにしてキリスト教を知り、教えを受けられたのでしょうか。


夫の細川忠興は、「利休七哲」と呼ばれる千利休の高弟七人のうちの一人でした。


そして、同じ「利休七哲」のなかにはキリシタン大名である高山右近がいました。この二人は親交があり、玉は忠興からたびたびキリスト教の話を聞いて影響を受けていったのではないかと思われます。


話を聞いた玉は、折をみては侍女たちを教会へと通わせ、侍女たちから話を聞いて自らも祈りを捧げるようになります。


 



洗礼を受ける

天正15年、豊臣秀吉による「バテレン追放令」が発令されました。


にもかかわらず、玉は侍女の清原枝賢(補足)の娘・清原マリア補足)による洗礼を受け、「恩寵」を意味する「ガラシャ」の名を与えられました。


ガラシャはしばらくの間、夫・忠興に自分がキリシタンであることを隠していました。


しかし大坂にある細川邸内に孤児院を造ってはさすがにばれてしまい、忠興は怒ります。


さらに自分の子供である興秋も洗礼を受けていることを知り、忠興は乳母と侍女たちを罰し、ガラシャには改宗を迫ります。それでもガラシャの意志は揺るぐことはなく、忠興は困惑したといいます。


 



言い付けを守る

そして時は流れ慶長5年(1600年)。


関ヶ原の戦い補足)の直前、石田三成らは敵方、つまり家康側についた大名たちの妻子を大坂城に監禁し、大名たちの戦意を削ぎ、あわよくば味方につけようと計画を立てていました。


7月9日、ガラシャの元にも入城命令はきました。しかし夫の忠興からは出陣の際、「決して屋敷の外に出てはいけない」と言い付けられていたのでガラシャは命令を拒否します。


 



火を放つ

7月17日、ガラシャを力づくで連れて行こうと軍による強攻策が始まります。


小笠原秀清補足)と河喜多石見補足)、稲富伊賀補足)が留守を守っていましたが、多勢に無勢。


雨
逃げられないと悟ったガラシャは屋敷に火を放たせ、(キリスト教の戒律により自害は禁じられているため)家臣の小笠原秀清に命じて自らの命を絶たせます。


その後、小笠原秀清と河喜多石見は自刃。稲富伊賀は逃走し行方をくらまします。


予想しなかった結果に石田三成らは驚き、この作戦に対し萎縮し、ただ監視を強めるのみに止まりました。


 



名を残す

「ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」


とは38歳でこの世を去ったガラシャの辞世の句。子孫である細川護熙元首相が退陣の際、この句を引用したことでも知られています。


大阪市中央区の聖マリア大聖堂はガラシャの像と高山右近の像が建てられています。


そして現在、京都府長岡京市では、かつての勝(青)龍寺城跡地を整備し「勝龍寺公園」として開放し、長岡京駅から公園までの通りを「ガラシャ通り」と呼んでいます。


秋にはガラシャが忠興に嫁いだときの様子を再現する「長岡京ガラシャ祭り」が開催され、広く市民に親しまれています。