細川幽斎の一生
細川家後継者
細川幽斎は、当時の歌壇における最高の奥儀「古今伝授」を授かりました。また独自に研究を重ね、各分派を一つにまとめあげた、「古今伝授」を語る上で欠かすことのできない人物です。
※名前は萬吉=藤孝=幽斎
生年は天文3年(1534年)、没年は慶長15年(1610年)。
幽斎の父は室町時代の武将・三淵晴員(はるかず)で、母は清原宣賢(のぶたか)の娘です。
晴員は妻を京都の岡崎にある屋敷に住まわせ、彼女はそこで男の子を出産して萬吉(まんきち)と名付けました。この「萬吉」が、のちに「細川幽斎」と呼ばれる人物になります。
天文7年(1538年)、晴員は、萬吉を将軍・義晴に謁見させました。そこで晴員は義晴に対し、萬吉をもっと身分の高い家の後継ぎにしてほしい、と願い出ます。
それを聞いた義晴は、晴員の実兄・細川元常の養子にするよう命じます。この日より萬吉は細川家の後継ぎとなりました。
細川藤孝
天文15年(1546年)、将軍・義晴の息子が元服し、「義藤」と名乗ります(のちの13代将軍・義輝)。このとき萬吉は、義藤より一字賜い「細川与一郎藤孝」と名乗るようになります。
この頃から将軍親子は権力争いに巻き込まれ、細川親子と一緒に各地を転々とします。
天文19年(1550年)、将軍・義晴が亡くなり義藤が13代将軍となります。
さらに天文23年(1555年)には藤孝の養父・元常が亡くなり、藤孝が細川家の後を継ぎます。
元常の時代、阿波、讃岐、伊予、土佐、播磨、備前、和泉、摂津などかなりの広範囲を治めていました。しかし三好方の諸将に横領され、残ったのは山城国(現・京都南部)の青(勝)龍寺付近のわずか3000貫。一国の主として前途多難な幕開けでした。
足利義昭
永禄8年(1565年)、13代将軍・義輝が三好長慶の軍に京都御所(補足)を攻められ、自害します。
細川藤孝は、興福寺(奈良県)に幽閉されていた義輝の弟・覚慶を救い出し、彼を将軍にするために各地を転々とします。仏門に入っていた覚慶は還俗し、義秋(のち義昭)と名を改めます。
永禄10年(1567年)越前(現・福井県)の大名・朝倉義景を頼り、義昭、藤孝らは彼の居城・一乗谷城に入ります。藤孝はここで明智光秀(補足)と知り合い、彼の手引きにより織田信長を頼ることになります。
信長の助けを得て、義昭は三好・松永の勢力を都から除き、15代将軍となります。
それからしばらく、藤孝は「姉川の戦い」や「石山合戦」など信長に助勢し、戦いに明け暮れる日々が続きます。
その途中、藤孝は三条西実枝(さねき)より一時預かりとして「古今伝授」を受けます。
天正元年(1573年)になると、義昭と信長の関係は悪化し、義昭は武田信玄に信長の討伐を頼みます。それを藤孝が諌めますが、逆に義昭に疎まれるようになります。
藤孝はその後、自分の城に蟄居するようになり、義昭が信長に京を追放されても義昭の味方をすることはありませんでした。
織田信長
織田信長は将軍を追放後、細川藤孝に対し新たな所領(長岡)を与えます。これにより、藤孝の石高は5万石ほどになります。
天正2年(1574年)正月、藤孝や明智光秀(補足)、蒲生氏郷ら諸将は岐阜城を訪れ、信長に年頭の挨拶をします。その際、信長は藤孝に、藤孝の息子・忠興と光秀の娘・玉(のちのガラシャ)との結婚を薦め、藤孝はこれを承諾。天正6年(1578年)8月に婚礼は行われました。
天正3年(1575年)から天正7年(1579年)ころまで「長篠の合戦」や長年にわたる石山本願寺との戦い、信長を裏切った松永久秀や荒木村重などへの対応。藤孝は再び戦いに明け暮れていました。
天正7年(1579年)3月、信長は各地の大名たちに暇を与え、藤孝、忠興親子も青龍寺城へ帰還します。
同年7月、信長は、藤孝と光秀を安土に招き、藤孝に丹後(現・京都府北部)を、光秀に丹波(現・京都府中部周辺)を与えます。
そして8月、藤孝・忠興親子は青龍寺より丹後国へ入国し、光秀の助力も受けて宮津城をつくり居城を移します(藤孝46歳)。
天正10年(1582年)6月、光秀が信長に背いて「本能寺の変」を起こし、信長を自刃に追い込みます。藤孝、忠興親子にも光秀からの協力要請がきましたが、二人は断り、剃髪します。そして、最後まで信長の死を悼みました。
光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗れ、逃亡中に死亡。
勝利を収めた羽柴秀吉は「豊臣秀吉」と名を改め、信長の代わりに天下人となって世の中を治めます。
世代交代
「本能寺の変」をきっかけに細川藤孝は隠居し、「幽斎玄旨」と名乗ります。そして田辺に城を築き、隠居をするための城としました。
後を継いだ息子の細川忠興は宮津城に残り、そこを居城とします。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死とともに、次の天下人の座をかけて世の中は再び動乱の時代を迎えます。
細川ガラシャ
慶長5年(1600年)3月19日、細川幽斎は八条宮智仁親王に対して「古今伝授」を開始します
同年6月、徳川家康は大坂を発ち、会津の上杉景勝討伐に向かいます。息子の細川忠興をはじめ、忠興の長男・忠隆、次男・与五郎、弟・玄蕃(げんば)、与十郎らも一緒に出陣していったため、幽斎は「古今伝授」を一旦中止し、留守を守るために丹後へと帰ります。
同年7月、反家康の筆頭であった石田三成はこれを好機と、大坂で他の反家康の大名たちとともに家康追討計画を練ります。
その一環として、敵となる大名たちをなんとか味方につけようと、妻子を人質にとることを計画します。
細川家の屋敷は、大坂玉造にあったため真っ先に槍玉に挙げられました。
しかし忠興夫人・ガラシャは忠興の言いつけを守り、人質となることを拒否。家臣に命じて自分を討たせます。
これに驚いたのは三成たち。ほかの者たちも後に続かれたら困ると考えたのか、人質作戦は監視の強化に終わりました。
田辺城篭城戦・前
ガラシャ死亡の翌日、つまり7月18日にその報せを聞いた幽斎は、近々石田三成の手勢が丹後に攻めてくることを知ります。
幽斎は田辺城(補足)に篭城することを決め、そのための準備をすすめます。
7月20日、福知山城主・小野木重勝を総大将とする15,000もの軍勢が国境まで迫ります。
幽斎方はわずか500余りの軍勢にも関わらず善戦しますが、さすがに多勢に無勢。徐々に不利な状況に陥ってしまいます。
田辺城篭城戦・中
京都にて細川幽斎の危機を聞かれた智仁親王は、幽斎の身を案じ、和睦をするよう説得するために大石甚助という用人を遣わします。
甚助は幽斎に開城を勧めますが、幽斎は拒否します。
幽斎は篭城中、自分が死ぬことよりも、平安後期より続いてきた幾百年の歴史をもつ「古今伝授」が、自分の代で絶えてしまうことを懸念していました。
そして幽斎は、智仁親王への「古今伝授」を残りの資料を渡すことで終わらせようと、資料を入れた箱と終了したことを示す証明状とを大石甚助に託します。
田辺城篭城戦・後
細川幽斎は、大石甚助に「古今伝授」の未来を託しました。その後も何度か使者が来ますが、何の憂いもなくなった幽斎は武人として死ぬことを選び、和睦の説得を断ります。
しかし、9月12日、後陽成天皇より直接の勅使として烏丸光広や中院通勝(みちかつ)、前田茂勝ら(人選については異説有り)が遣わされます。
戦の中止を命ぜられた小野木重勝らは囲みを解き、勅使は城に入ります。
さすがに断りきれなかった幽斎は勅命を受け、9月18日に城を出て前田茂勝の治める丹波亀山城に入ります。
前田茂勝は、関ヶ原の戦いでは西軍に属していました。今回の田辺攻めにも参加し、いわば幽斎とは敵対関係にあたります。しかし、茂勝の父・玄以は西軍でありながら東軍に通じていたようです。そのためか、関ヶ原の戦い後も所領を没収されることもなく、幽斎は亀山城にて手厚く迎えられていたようです。
今回の50日以上にも及ぶ篭城は、15日の関ヶ原本戦の勝敗にも関わったといわれています。東軍の総大将・徳川家康は、関ヶ原の戦い後、直接幽斎に篭城の労いをし、恩賞の打診もしました。
ところが幽斎はこれを辞退し、篭城中に敵でありながら自分たちと志を通じようとした人たちを助けてほしい、と願い出ます。家康はこれを聞き入れ、命ばかりでなく所領にも手を出しませんでした。
細川忠興
さて、父・幽斎の篭城のあと、城を失い、妻ガラシャを失った細川忠興は、元来の気性の荒さも手伝って激情に駆られていました。
関ヶ原より帰還した忠興は、直ちに徳川家康から亀山城と福知山城の攻撃許可をとります。亀山城攻略へと向かった忠興は幽斎と再開を果たします。忠興は幽斎の説得もあって、何とか前田茂勝に対する怒りを静めます。
その後、福知山城に攻め込みますがなかなか落とすことはできず、長期戦になります。そんなとき、家康の意を受けた使者が来て、両軍の仲裁に入ります。結果、小野木重勝が出家することで命を助けるということになり重勝は剃髪、亀山の寿仙院に入ります。
しかしそれでは怒りを抑えることのできなかった忠興は、すぐさま重勝に対し切腹を命じました。
幽斎は京に上り、しばらく吉田の屋敷で静養します。
12月上旬、忠興は丹後から豊前へ領地替えとなります。
忠興にとって丹後は思い出深い土地であり、丹後を発つ際、天橋立を見てこのような歌を残しました。
立別れ松に名残はおしけれと思い切れとの天の橋立
細川幽斎
慶長14年(1610年)8月、田辺篭城以降病気がちだった細川幽斎は、77歳でこの世を去ります。
幽斎の遺体は、幽斎自身の遺言どおり南禅寺北門前にて荼毘(だび。仏教用語。火葬の意)にされ、遺骨は京都と小倉に分骨されました。
京都でまず法事が行われ、9月18日に野上の原(東小倉門司口)で葬儀が行われました。
この葬儀には、京都より幽斎の弟である大徳寺の玉甫(ぎょくほ)和尚や南禅寺の慶安和尚をはじめ、天竜寺、相国寺、建仁時などから150人あまりの僧が招かれました。
さらに、地元小倉の僧たちも参加し、近隣の大小名50人あまりも弔問に訪れ、垣の外には城下の人たちが数多く押しかけました。
また2代将軍徳川秀忠は、幽斎の死に対して豊前小倉に使いをよこし、自身も碁や将棋などの掛けごとを三日間中止して喪に服しました。
肩書きでいえば、幽斎は外様大名家の一隠居にしか過ぎません。その死に対し、これほどの敬意を払うことは将軍家においても異例なことでした。
細川幽斎の一生は波乱に満ちたものでした。足利、織田、豊臣、徳川と続いた激動の時代をそれぞれの最高権力者から最大の敬意をもって迎えられ、自らの役割を果たしていきました。
また、武将でありながら向学心旺盛で、特に和歌文学において後世に与えた影響は計り知れません。
時代は中世から近世へ。
幽斎は中世の和歌文学を発展させ、正しく近世へと伝えたのです。