六歌仙

「近き世にその名きこえたる人」

「六歌仙」とは、古今和歌集の撰者の一人である紀貫之(補足)が、「近き世にその名きこえたる人」として挙げた6人の歌人たちのことです。ただし「六歌仙」という呼び名は紀貫之が言い出したのではなく、後世においてそう呼ばれるようになりました。


そして、「六歌仙」は紀貫之ら撰者たちより世代が前であることから、古今和歌集に収録されている歌の時代が「作者不詳」、「六歌仙」、「撰者たち」と区別されるようになりました。


在原業平、僧正遍昭、小野小町、文屋康秀、大伴黒主、喜撰法師。この6人に特に共通性はなく、収録された歌の数もばらばらです。


紀貫之は「古今和歌集 仮名序」でこの6人の歌に対し評価を下していますが、それはけっして高いものではありませんでした。


 



「心余りて詞足らず」

在原業平(ありわらのなりひら) 天長2年(825年)~元慶4年(880年)


平城天皇の孫。紆余曲折を経て最終的に元慶3年(879年)頃、蔵人頭(くろうどとう)に任ぜられますが、その翌年に死去。享年56歳。


業平は恋多き男で、浪漫的で情緒豊かな歌を詠います。また、「伊勢物語」の主人公は業平をモデルにしたものといわれています。


古今和歌集には30首。紀貫之補足)の評価は「心余りて詞足らず。しぼめる花の色なくて、にほひ残れるが如し」(心情があまって言葉が足りない、詞におさまりきれない。しぼんだ花の色がなくなっても(美しさをうしなっても)、匂いは残っているかのようだ)


代表的な歌 
   「世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし」
   「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして」


 



「歌の様は得たれども、まこと少なし」

僧正遍昭(そうじょうへんじょう) 弘仁7年(816年)~寛平2年(890年)


俗名は、吉岑宗貞(よしみねのむねさだ)で通称は良僧正・花山僧正。桓武天皇の孫にあたります。


嘉祥2年(849年)、蔵人頭(秘書のような職)に任命されますが、翌年嘉祥3年(850年)に仁明天皇の崩御(亡くなる)とともに出家します。


比叡山に入り、最澄門下の円仁と円珍のもとで修行し、比叡山密教を学びます。


後年、僧正に任ぜられ、890年(寛平2年)75歳で死去します。


惟喬(これたか)親王や小野小町と親交があり、歌のやり取りをしています。


古今和歌集には17首。紀貫之補足)の評価は「歌の様は得たれども、まこと少なし。たとへば絵にかける女を見て、徒に心を動かすが如し」(歌の形や趣向はよいが、現実味に欠ける。例えば絵に描いた女を見て、無駄に気を惹かれるようなもの)

 
代表的な歌
   「天つ風雲の通い路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ」


 



「いにしへの衣通姫の流なり」

小野小町(おののこまち) 生没年不詳。


小野妹子の子孫・小野篁の孫(出羽郡司良真の子)や出羽守小野滝雄の子といった説があります。


恋歌が多く、その点では在原業平に似ているともいえますが、こちらは女性の心情で詠まれていることもあり、哀れみを誘います。


宮仕えをしていたようで、その歌からは同じ六歌仙の僧正遍昭、文室康秀などとの交流が窺えます。


古今和歌集には18首。紀貫之補足)の評価は「いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはばよき女のなやめる所あるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし」(小野小町は)昔の衣通姫(そとおりひめ)の系統である。しみじみと趣深いようではあるが力強さはない。いうなれば美女が悩んでいるところに似ている。力強さがないのは女の歌だからであろう)


代表的な歌 
   「花の色は移りにけりないたずらにわが身世にふるながめせしまに」
   「思ひつつぬ寝ればや人の身えつらむ夢としりせばさめざらましを」
   「わびぬれば身をうき草のねをたえてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ」


 

       



「詞はたくみにて、そのさま身におはず」

文屋康秀(ぶんやのやすひで) 生年不詳。没年は885年(仁和元年)か 
 
 
官人で小野小町と交流があり、親王家の歌合せに参加していたこともあるようです。


古今和歌集には4首。紀貫之補足)の評価は「詞はたくみにて、そのさま身におはず。いはば商人のよき衣着たらんがごとし」(言葉遣いは上手だが、中身とあっていない。いうなれば(身分の低い)商人が素晴らしい衣を着ているかのようだ)


代表的な歌 
   「吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ」
   「春の日の光にあたる我なれど 頭の雪となるぞわびしき」


 



「そのさま卑し」

大伴黒主(おおとものくろぬし) 生没年不詳
 

近江国(現・滋賀県)と縁があるようで、鴨長明「無名抄」には黒主は近江国の志賀郡に明神として祀られたというくだりがあります。


六歌仙のなかでは唯一小倉百人一首に選ばれなかった人物です。


古今和歌集には3首。紀貫之補足)の評価は「そのさま卑し。いはば薪を負へる山人の花の陰にやすめるが如し」(歌の在りようがみすぼらしく品がない。いうなれば、薪(たきぎ)を背負う木こりが(美しい)花の陰で休んでいるかのようだ)


代表的な歌 
   「春さめのふるは涙か桜花散るを惜しまぬ人しなければ」
   「思ひいでて恋しきときははつかりのなきてわたると人知るらめや」
   「鏡山いざたちよりて見てゆかむ年へぬる身は老いやしぬると」
   「近江のや鏡の山をたてたればかねてぞ見ゆる君が千歳は」


 



「詞かすかにして始め終り確かならず」

喜撰法師(きせんほうし) 生没年不詳


現在の京都宇治山の僧。


古今和歌集には1首。紀貫之補足)の評価は「詞かすかにして始め終り確かならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるが如し。よめる歌おほく聞えねば、これかれ通はしてよく知らず」(言葉がはっきりとせず始めと終わりが確かではない。いうなれば秋の月を見ようとしたら夜明けの雲にであってしまったかのよう。残っている歌が少ないので、歌を通じてははっきりとわかることはできない)
 

代表的な歌 
   「わが庵は都の辰巳しかぞすむ世を宇治山と人はいふなり」