成立以前の時代

漢字が主流

古今和歌集の成立年代には、延喜5年(905年)という説を中心に諸説ありますが、それ以前の文学はどういうものであったかというと、「漢風賛美」であり「国風暗黒」の時代でした。


桓武天皇治世の延暦13年(794年)、都が奈良から京都に移されました。「平安京」の誕生です。この頃わが国の文字は、中国からもたらされた漢字が主流でした。


宮中を中心とした公式文書、寺社の記録などは全て漢字で書かれていました。平安遷都の約30年前に万葉仮名を用いた「万葉集」が編まれましたが、仮名はまだまだ一般的に使用されることはなかったといいます。


 



嵯峨天皇が日本文学推進者

9世紀初頭、わが国では勅撰による漢詩集が相次いで三集編まれます。


弘仁5年(814年)の嵯峨天皇による「凌雲集」。4年後、弘仁9年(818年)の同じく嵯峨天皇による「文華秀麗集」。そして天長4年(827年)の淳和天皇による「経国集」


この頃、日本の文学の推進者は嵯峨天皇でした。天皇自ら多くの詞を詠み、また臣下にも詞を詠む人が大勢いました。国内で漢詩が全盛期を迎えていたのです。


 



漢字がもたらしたもの

「凌雲集」の序文にこういった一文があります。


「魏の文帝の曰へること有り、文章は経国の大業、不朽の盛事なり。年寿時として尽くること有り、栄楽は其の身に留まると(原文漢文)」


意味は「魏の国の文帝にかつて言われたことがある。文章は国を治めるための大切な事業であり、朽ちることのない盛大さがある。一方人間の寿命には限りがあり、栄誉も楽しみもその生涯限り、文章の永久性には及ばない」


これは、文章の永遠性を述べ、詩を詠むことを促しています。漢字はわが国に文字という表現方法を教え、知的階級層に深く根を下ろしていきました。


 



和歌が詠まれはじめる

大伴家持によって「万葉集」が編まれてから100年ほど経つと、仮名も徐々に洗練され、「和歌」が詠まれるようになってきます。


和歌が上流階級に浸透すると、皆で集まって歌を詠み合う「歌合(うたあわせ)」 が開催されるようになります。


紀友則補足)、紀貫之補足壬生忠岑(ただみね)、凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね)。後に古今和歌集の撰者に選ばれるこの4人も歌合に参加し、歌人として成長していきました。


 



漢詩が上位

寛平5年(893年)、「新撰万葉集」が編まれます。


この「新撰万葉集」は仮名を使って編まれました。


現在、仮名のみを用いた歌集は公にはほとんど残っておらず、当時はまだ、和歌は漢詩よりも一段低いものとしてみられていました。


しかし、「歌合」が盛んに行われていた背景や、この「新撰万葉集」の登場により、徐々に天皇発令による勅撰和歌集の登場に対する期待が高まっていったといえるかもしれません。