本座と新座
熊本には「本座」「新座」と呼ばれる能座があり、早くから活動をしておりました。
特に江戸時代は、大夫友枝家を中心とする本座が祇園社(北岡神社)の祭礼に、大夫桜間家を中心とする新座は祇園社祭礼と藤崎宮八幡宮の祭礼に神事能を勤めておりました。
この本座・新座がいったいいつ頃から存在したかについては諸説ありますが、加藤清正入国以前から組織されていたことは間違いないようです。
熊本の加藤家に召し抱えられた中村庄兵衛は、寛永元年に子の左馬進正辰(さまのしんまさたつ)に家督を譲って隠居し、西国の諸大名や有力者に能を指南してまわりました。
寛永4、5年には細川忠利、長岡休無斎(三斎の長男)、松井興長らが起請文を書いて中村家に入門しています。
寛永9年、加藤忠広が改易され中村正辰は浪人を余儀なくされましたが、小倉の細川忠利が知行1000石で召し抱えました。そして、その年10月、忠利の肥後移封により正辰は再び熊本へ帰って参りました。
この中村家と本座、新座の人々を中心に肥後の能楽は江戸期を通じ、ますます盛んになっていきました。