細川幽斎
慶長14年(1610年)8月、田辺篭城以降病気がちだった細川幽斎は、77歳でこの世を去ります。
幽斎の遺体は、幽斎自身の遺言どおり南禅寺北門前にて荼毘(だび。仏教用語。火葬の意)にされ、遺骨は京都と小倉に分骨されました。
京都でまず法事が行われ、9月18日に野上の原(東小倉門司口)で葬儀が行われました。
この葬儀には、京都より幽斎の弟である大徳寺の玉甫(ぎょくほ)和尚や南禅寺の慶安和尚をはじめ、天竜寺、相国寺、建仁時などから150人あまりの僧が招かれました。
さらに、地元小倉の僧たちも参加し、近隣の大小名50人あまりも弔問に訪れ、垣の外には城下の人たちが数多く押しかけました。
また2代将軍徳川秀忠は、幽斎の死に対して豊前小倉に使いをよこし、自身も碁や将棋などの掛けごとを三日間中止して喪に服しました。
肩書きでいえば、幽斎は外様大名家の一隠居にしか過ぎません。その死に対し、これほどの敬意を払うことは将軍家においても異例なことでした。
細川幽斎の一生は波乱に満ちたものでした。足利、織田、豊臣、徳川と続いた激動の時代をそれぞれの最高権力者から最大の敬意をもって迎えられ、自らの役割を果たしていきました。
また、武将でありながら向学心旺盛で、特に和歌文学において後世に与えた影響は計り知れません。
時代は中世から近世へ。
幽斎は中世の和歌文学を発展させ、正しく近世へと伝えたのです。