田辺城篭城戦・後
細川幽斎は、大石甚助に「古今伝授」の未来を託しました。その後も何度か使者が来ますが、何の憂いもなくなった幽斎は武人として死ぬことを選び、和睦の説得を断ります。
しかし、9月12日、後陽成天皇より直接の勅使として烏丸光広や中院通勝(みちかつ)、前田茂勝ら(人選については異説有り)が遣わされます。
戦の中止を命ぜられた小野木重勝らは囲みを解き、勅使は城に入ります。
さすがに断りきれなかった幽斎は勅命を受け、9月18日に城を出て前田茂勝の治める丹波亀山城に入ります。
前田茂勝は、関ヶ原の戦いでは西軍に属していました。今回の田辺攻めにも参加し、いわば幽斎とは敵対関係にあたります。しかし、茂勝の父・玄以は西軍でありながら東軍に通じていたようです。そのためか、関ヶ原の戦い後も所領を没収されることもなく、幽斎は亀山城にて手厚く迎えられていたようです。
今回の50日以上にも及ぶ篭城は、15日の関ヶ原本戦の勝敗にも関わったといわれています。東軍の総大将・徳川家康は、関ヶ原の戦い後、直接幽斎に篭城の労いをし、恩賞の打診もしました。
ところが幽斎はこれを辞退し、篭城中に敵でありながら自分たちと志を通じようとした人たちを助けてほしい、と願い出ます。家康はこれを聞き入れ、命ばかりでなく所領にも手を出しませんでした。