細川ガラシャ
慶長5年(1600年)3月19日、細川幽斎は八条宮智仁親王に対して「古今伝授」を開始します
同年6月、徳川家康は大坂を発ち、会津の上杉景勝討伐に向かいます。息子の細川忠興をはじめ、忠興の長男・忠隆、次男・与五郎、弟・玄蕃(げんば)、与十郎らも一緒に出陣していったため、幽斎は「古今伝授」を一旦中止し、留守を守るために丹後へと帰ります。
同年7月、反家康の筆頭であった石田三成はこれを好機と、大坂で他の反家康の大名たちとともに家康追討計画を練ります。
その一環として、敵となる大名たちをなんとか味方につけようと、妻子を人質にとることを計画します。
細川家の屋敷は、大坂玉造にあったため真っ先に槍玉に挙げられました。
しかし忠興夫人・ガラシャは忠興の言いつけを守り、人質となることを拒否。家臣に命じて自分を討たせます。
これに驚いたのは三成たち。ほかの者たちも後に続かれたら困ると考えたのか、人質作戦は監視の強化に終わりました。