織田信長

織田信長は将軍を追放後、細川藤孝に対し新たな所領(長岡)を与えます。これにより、藤孝の石高は5万石ほどになります。


天正2年(1574年)正月、藤孝や明智光秀補足)、蒲生氏郷ら諸将は岐阜城を訪れ、信長に年頭の挨拶をします。その際、信長は藤孝に、藤孝の息子・忠興と光秀の娘・(のちのガラシャ)との結婚を薦め、藤孝はこれを承諾。天正6年(1578年)8月に婚礼は行われました。


天正3年(1575年)から天正7年(1579年)ころまで「長篠の合戦」や長年にわたる石山本願寺との戦い、信長を裏切った松永久秀や荒木村重などへの対応。藤孝は再び戦いに明け暮れていました。


天正7年(1579年)3月、信長は各地の大名たちに暇を与え、藤孝、忠興親子も青龍寺城へ帰還します。


同年7月、信長は、藤孝と光秀を安土に招き、藤孝に丹後(現・京都府北部)を、光秀に丹波(現・京都府中部周辺)を与えます。


そして8月、藤孝・忠興親子は青龍寺より丹後国へ入国し、光秀の助力も受けて宮津城をつくり居城を移します(藤孝46歳)。


天正10年(1582年)6月、光秀が信長に背いて「本能寺の変」を起こし、信長を自刃に追い込みます。藤孝、忠興親子にも光秀からの協力要請がきましたが、二人は断り、剃髪します。そして、最後まで信長の死を悼みました。


光秀は「山崎の戦い」羽柴秀吉に敗れ、逃亡中に死亡。


勝利を収めた羽柴秀吉は「豊臣秀吉」と名を改め、信長の代わりに天下人となって世の中を治めます。


 

古今伝授の間 観光ガイド:熊本県重要文化財@水前寺公園トップへ