田辺城(たなべじょう)
天正6年(1578年)、織田信長は、明智光秀と細川藤孝(幽斎)に丹波・丹後攻めを命じます。丹波攻めの総大将は光秀、丹後攻めの総大将は藤孝。藤孝は建部山城主の一色義通を滅ぼし、丹後を平定します。
その功績により丹後の国は細川藤孝、忠興親子の領国となります。
天正7年(1579年)、現在の伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に丹後国経営の拠点として田辺城を築きます。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの功績により、細川親子は豊前中津城主となります。
細川氏の後、京極高知が12万3千石で入封しますが、寛文8年(1668年)3代目・高盛が但馬豊岡に移封され、代わって牧野親成が3万5千石で田辺城に入城。以後牧野氏10代の居城として明治6年に廃城になるまで続きます。
現在の地名である舞鶴は田辺城の別称「舞鶴城」に由来しています。
現在、田辺城は本の丸・二の丸の一部が「舞鶴公園」と呼ばれ桜の名所として有名になっています。