【古今伝授について】補足
京極為教(きょうごくためのり)
嘉禄3年(1227年)~ 弘安2年(1279年)。鎌倉時代の歌人。父は藤原為家。母は宇都宮頼綱女。歌道・京極派の祖。
和歌に関して、兄である二条為氏と対立しました。
京極家は、為教の息子・為兼の時代(南北朝時代)になると、北朝方に与します。京極派の斬新で型破りな歌風は、保守的な二条派と意見を逆にするもので真っ向から対立します。
結果的に両家とも断絶するのですが、二条派と違い京極派には後世に伝える者もなく、京極派の歌道もまた失われました。
三条西実枝(さんじょうにしさねき)
三条西家は、藤原氏北家閑院流の正親町三条家の分家で、大臣家の家格を有する公家です。
歌道を家職とし、戦国時代に活躍した実隆(さねたか)・公条(きんえだ)・実枝(さねき)は「三条西三代」と呼ばれています。
実枝は、これまで三代にわたり三条西家内で伝わってきた歌道の奥儀「古今伝授」を息子の公国(きんくに)に伝えようとします。しかし、公国は幼かったため、「古今伝授」を一時預かりとして武将の細川幽斎に授けます。
実枝は公国への伝授を確実なものとするため、様々な工夫を凝らし、その甲斐あってか公国に古今伝授は相伝されます。しかし、当の公国本人が早逝したため、実枝の苦労は水の泡となってしまいます。
このとき「古今伝授」に加えた工夫は、後の「古今伝授」にも影響を与えました。
三木三鳥(さんぼくさんちょう)
古今伝授には「三木三鳥」と呼ばれる特に重要とされる秘説があります。
「三木」とは 御賀玉木(おがたまのき)、河菜草(かわなくさ)、めどに削り花 のこと。
御賀玉木とは、高さ18メートルにも達するモクレン科の常緑高木。床柱や器具の材料に使われ、葉は香料として使われます。
河菜草とは、川に生えている水草の一種。コウホネと呼ばれることもあるようです。
めどに削り花とは、豆科の植物・メドハギに木を削ってできた造花をつけたもののことです。
「三鳥」とは 呼子鳥(よぶこどり)、百千鳥(ももちどり)、稲負鳥(いなおおせどり) のこと。
呼子鳥とは、人を呼ぶような鳴き声をする鳥。筒鳥、カッコウなどを指します。
百千鳥とは、春の訪れをしらせてくれる鳥たちのことです。
稲負鳥とは、秋に来る渡り鳥のことで、具体的にどの鳥を指すかは諸説あります。
後世の人による古今伝授の研究過程でこの「三木三鳥」が生まれたようで、最初から古今伝授に「三木三鳥」と呼ばれるものがあったというわけではないようです。
東常縁(とうのつねより)
東常縁は室町時代の武将であり、歌人でもあります。東家の9代目でのちに出家します。
はじめ冷泉派の清巌正徹に和歌を学びますが、宝徳2年(1450年)に正式に二条派の尭孝の門弟となります。
応仁の乱では所領である美濃国群上を斎藤妙椿に奪われました。しかし、妙椿とは和歌による交流があったため、幾度か和歌のやり取りをした後、所領は返還されます。
切紙による伝授方法を取り入れて、門人である連歌師・飯尾宗祇に二度に分け口伝により伝授します。この東常縁の代より古今伝授は体系化されます。
二条為氏(にじょうためうじ)
貞応元年(1222年)~弘安6年(1286年)。鎌倉時代の歌人。藤原為家の長男。母は宇都宮頼綱女。歌道・二条派の祖。
弟であり歌道のライバルでもあった京極為教や冷泉為相とは仲が悪かったようです。
二条派は、南北朝時代になると南朝方に与し、保守的な歌風を広げます。意見を異にする京極派とは勅撰和歌集の撰者の座について争いますが、最終的に両家とも断絶してしまいます。
しかし、二条派の歌学や古今伝授は、その弟子たちによって受け継がれ、東常縁から飯尾宗祇、宗祇から三条西家へと、以降も永く後世まで伝えられていきます。
八条宮家(はちじょうみやけ)
天正17年(1589年)、豊臣家に男子が誕生します。
秀吉は長年望んだ男子の誕生に大変喜びましたが、同時にある悩みを抱え込むことになります。
実は秀吉は前年、天皇家に願い出て皇弟の胡佐麿(こさまろ)を養子として迎えていました。
秀吉としては実子を後継ぎにしたい。しかし、軽々しく天皇家との養子縁組を解消するわけにはいかない。思い悩んだ秀吉は一つの妙案を思いつきます。
天正18年(1590年)、秀吉は胡佐麿のために新しい宮家の創設を天皇に奏請します。
その年の9月、秀吉の奏請は聞き遂げられ「八条宮家」の創立が新たに決定しました。
さらにその翌年、天正19年(1591年)八条宮家の当主となった胡佐麿に親王宣下があり、「智仁(としひと)」の名を賜ります。以後、胡佐麿は「八条宮智仁親王」と名乗り、八条宮家は後に京極宮、桂宮と名前を変え、明治初期まで存続していきます。
冷泉為相(れいぜいためすけ)
弘長3年(1263年)~ 嘉暦3年(1328年)鎌倉時代の歌人。父は藤原為家。母は「十六夜日記」の作者・阿仏尼。歌道・冷泉派の祖。
為家の没後、所領であった播磨国(現・兵庫県)細川荘の相続問題で、兄である二条為氏と争います。訴訟には為相の母・阿仏尼が積極的に介入し、その結果、勝訴となります。
歌風は二条派や京極派と比べて目立つような部分はなく、また二条派のような際立った繁栄もすることはなかったようですが、一番長く続き江戸時代には徳川家康からの支援も受けていたようです。
冷泉家は室町時代に「上冷泉家」と「下冷泉家」とに分かれます。両家とも現在まで続く名家ですが、一般に「冷泉家」というと「上冷泉家」のことを指すようです。