細川幽斎の古今伝授
細川幽斎のこれまで
細川幽斎(藤孝)は室町時代の武将・三淵晴員(はるかず)の次男で、母は著名な儒学、国学者・清原宣賢(のぶかた)の娘。和泉半国守護で晴員の実兄・細川元常の養子になりました。
「幽斎」という名は、本能寺の変のあと隠居したときから名乗る名前で、それ以前は「藤孝」といいます。足利将軍や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった歴史の重要人物たちに仕え、あるいは重用されていました。
約束の達成
文人としても秀でていた細川幽斎は、当時の歌壇における最高峰「古今伝授」を、三条西実枝より、実枝の息子・公国が成長するまでの一時預かりとして相伝されます。
そして幽斎は、約束どおり公国に対し古今伝授を行いましたが、天正15年、32歳の若さで公国は早逝してしまいます。
公国には息子・実条(さねえだ)がいましたが、幽斎はすでに三条西家に対する約束は果たしていました。
しかも、幽斎は公国に対する伝授を終えた後、束縛から自由となった身で独自に研究を重ね、己の三条西流の古今伝授や、他流の古今伝授をまとめて集大成していました。
そのため、自分がまとめた古今伝授をすべて相伝するには、三条西家以外の人物を選ぶ必要があったと思われます。
古今伝授の後継者選び
細川幽斎は、三条西公国のあとにも島津義久や中院通勝(みちかつ)といった人たちにも古今伝授を行っていましたが、新たな後継者には八条宮智仁親王を選びました。
幽斎から智仁親王への古今伝授は、智仁親王が誓状を提出した1600年(慶長5年)3月19日より開始されます。
しかし四月になると、関ヶ原の戦いに向けて世の中が慌しくなり、幽斎も準備のため、伝授を一旦中断し丹後国田辺に帰ります。
細川幽斎の危機
7月になると、石田三成の命をうけた丹波福知山城主・小野木重勝が、大軍を率いて幽斎の所領である丹後国(現・京都府舞鶴)に攻め込んできます。
重勝の軍勢15,000に対し、幽斎の軍勢はわずか500。幽斎は、自らの田辺城で篭城を余儀なくされました。
死を覚悟した幽斎は、智仁親王に対しいまだ相伝途中であるにも関わらず、古今伝授関係の書類を収めた箱と、相伝終了を示す古今伝授証明状を送ります。非常事態ゆえに、古今伝授に関する資料をすべて譲り、親王がそれらをまとめあげることによって相伝は終了するとみなしたようです。
智仁親王は、幽斎を助けるために和睦をすすめるための使者を何度か派遣しますが、幽斎はこれを全て「武士の本意ではない」と拒否。
古今伝授も無事に相伝できた幽斎には何の憂いもなく、最期は武人として散る覚悟を決めていました。
朝廷の介入
細川幽斎の危機は後陽成天皇の耳にも入り、ついに天皇から直接勅使が派遣されることになりました。
ここまできて幽斎はようやく和議を受け入れます。篭城期間は50日以上に及びました。
相手方の15,000もの軍勢は、結果的にここで足止めをされていた形になりました。そしてそのまま関ヶ原本戦に到着することもないまま、本陣は大敗という結果に終わりました。
ちなみに、朝廷が武士同士の戦に介入することは極めて珍しく、後にも先にもこの一件のみであったということです。
その後、智仁親王は資料の書写などの自身の努力によって、幽斎の古今伝授をほぼ完全に受け継ぎます。そして親王自身は甥の後水尾天皇に対して古今伝授を行い、古今伝授は御所伝授という形で宮中に入っていきます。