三条西実枝の古今伝授
変化のきっかけ
三条西実枝(さねき)は細川幽斎へと古今伝授を行いました。ですが三条西家は当時大臣家の家格を有する公家。その公家が、文人として有名とはいえ、一介の武将に過ぎない幽斎に対し古今伝授を行ったのはある事情がありました。
古今伝授は、当時の歌壇における最も重要な秘伝です。実枝は幽斎に対し伝授を行う際、自分の息子である公国(きんくに)に対し、必ず古今伝授を行うよう命じます。
それだけでは不安を拭いきれなかったのか、実枝はより確実なものとするため様々な工夫を凝らします。
このときの工夫は、以降の古今伝授にも大きな影響を与えました。
三条西実枝の不安
三条西実隆よりはじまった三条西家の古今伝授は、実隆から公条(きんえだ)、そして実枝と三条西家内で続きます。実隆や公条は、天皇に対し古今和歌集の講釈をするまでになり、古今伝授はいわば三条西家のものとして定着していきます。
そういった背景もあり、実枝は古今伝授が自分の代で途絶えたり、また他の家に伝わってしまうことで三条西家の独占状態が失われることを極端に恐れました。
本来ならば実枝から直接息子の公国へ相伝されるはずでした。しかし、年齢があまりにも離れているため(実枝60歳のとき公国15歳)実枝が存命中に相伝することは難しい。かといって他の公家に相伝するわけにもいかない。そこで苦肉の策として白羽の矢がたったのが細川幽斎でした。
三条西実枝の誤算
三条西実枝は前述した通り様々な手段を用い、細川幽斎に対して、古今伝授を実枝の息子である公国以外に相伝することを禁じました。
幽斎は実枝の死後、約束通り公国(きんくに)に対し古今伝授を行います。しかし、七年後に公国は早逝してしまいます。
公国の死後、幽斎は公国の子・実条(さねえだ)にも伝授を行いました。しかし、幽斎は公国への伝授が終了したあと、古今伝授に対する研究を進め、自分のもつ三条西家流の古今伝授と他流の古今伝授とを一つにまとめあげていました。
そのため、幽斎の古今伝授は最早「三条西家流」とはいえず、己の古今伝授を後世に伝えるためには、後継者を三条西家以外の人間から選ぶ必要がありました。
幽斎には多くの弟子がいました。その中でも、権威と和歌の才能とを併せ持っていたのが後陽成天皇の弟である八条宮智仁親王でした。