【古今伝授の間】補足

桂離宮(かつらりきゅう)

八条宮家の初代・智仁(としひと)親王によって基礎が築かれた、京都市西京区の桂にある離宮。


離宮の一部が、かつての親王の御学問所「古今伝授之間」がモデルになったといわれ、17世紀に八条宮家の別荘として造営されました。書院・茶屋・回遊式庭園から成り、これらの造営は2代・智忠親王が数十年をかけて整備しました。


「桂」の地は古くから貴族の別荘として知られ、平安時代には藤原道長の別荘もあり、観月の名所としても知られていました。


回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされ、現在でも造営当初の建築物とともにその姿を遺しています。


茶屋は「松琴亭」、「賞花亭」、「笑意軒」、「月波楼」など複数あり、庭園は近くの桂川から水を引き池をつくっています。


明治14年(1881年)に旧八条宮家(桂宮家)が断絶し、明治16年(1883年)から宮内省、第二次世界大戦後は宮内庁の管理となります。


現在、参観は可能ですが事前に申し込みが必要です。


 



茅葺き(かやぶき)

日本家屋の屋根の構造のひとつ。植物を使い、屋根を葺く。といっても「茅(かや)」という植物はなく、「茅」とはアシ、ススキ、チガヤ、スゲなどの比較的長い繊維の葉や茎を持つ植物の総称です。

 
以前は日常的に見ることができましたが、太平洋戦争以後、時代の急激な変化により衰退していきます。

 
イギリスやオランダなどのヨーロッパ諸国では富裕層を示す一種のステータスになっていることもあるようです。


 



京都御所(きょうとごしょ)

日本三大古都の一つに数えられる京都。古式ゆかしいその京都に、東西約700m、南北約1,300mの広大な公園があります。


「京都御苑(きょうとぎょえん)」と呼ばれるこの公園の敷地内には、かつて天皇の住居であった「京都御所」があります。


その歴史は、延暦13年(794年)に行われた桓武天皇による平安遷都以降、1000年以上にも及びます。


この京都御所はたびたび火災などで焼け、そのたびに再建されています。現在の京都御所は安政2年(1855年)に幕府が老中・松平定信に命じて、平安様式に則ってつくらせたものです。


昔ながらの風雅な建物が並び、二つの広大な池にはもみじ橋、八橋という橋が架かっています。


また、敷地内には約50,000本ともいわれる多種多様な木々が生育し、御所を含んだ歴史的景観を形成するのに一役買っています。


明治になり、都が東京に移ると御苑は国民公園として開放されます。


現在、御苑内にはグラウンドやテニスコートなども設けられ、散歩をする人やスポーツを楽しむ人など、市民の憩いの場として広く親しまれています。


京都御苑内にはいつでも自由に入ることができますが、御苑内の仙洞御所や京都御所の参観には事前に宮内庁からの許可が必要となります。


 



古今伝授之間の掛け軸(こきんでんじゅのまのかけじく)

寛永8年(1631年)細川家3代・忠利とその息子・六丸(のちの光尚)は江戸で新年を迎えます。

正月晦日、忠利は六丸を鷹狩りに行かせたい旨を老中・土井大炊守に願い出、許可を頂きます。その際、将軍家秀忠親子より秘蔵の鷹を遣わされました。
将軍家の計らいは細川家にとって大変名誉なことであったため、忠利の父・三斎も大いに喜びます。

この時、六丸が家臣の長岡勘解由に宛てた手紙を軸装し、平成19年正月より水前寺公園内の「古今伝授之間」に飾られることになりました。

この年、忠利は46歳、三斎は69歳、六丸は元服前の13歳でした。

内容


為音信、條(篠)三筋   音信として篠竹三筋いただい
到来、祝着候   嬉しいことである
我ら事頃従兩   私は最近兩上様から
上様、御鷹拝領候而   ご秘蔵の鷹を拝領したので
明日 泊鷹野ニ参候   明日鷹狩りに行く予定である
猶、松野織部、   詳しいことは松野織部と
町三右衛門可申候、  謹言   町三右衛門が申し述べる   謹言
      二月朔日六(花押)             二月朔日六(花押)
     長岡勘解由左衛門殿            長岡勘解由左衛門殿



・長岡勘解由左衛門…細川家家臣。沼田延之。
・松野織部…松野親英。はじめ蜂須賀蓬庵に仕え、後に細川忠興に召出される。
・町三右衛門…細川家臣。忠興に召出された江戸留守居役





書院造り(しょいんづくり)

室町時代に成立した住宅建築様式。もともと禅僧が書斎として使用するためにつくられたもので、主室 には座敷飾りの床(とこ)、書画、置物などを飾るための違い棚、書を読むための書院などが備えられています。


 



長岡天満宮(ながおかてんまんぐう)

京都府長岡市。菅原道真が大宰府へ左遷となったとき、この地に立ち寄り「我が魂、長くこの地に留まるべし」と言い残し、道真死後、道真作の木像を祀ったのが設立のきっかけといわれています。


寛永15年(1638年)には八条宮智仁親王により「八条が池」が築造されます。


参道の両側には有名な樹齢百数十年のキリシマツツジが多数植えられており、シーズンには多くの観光客で賑わいます。